五郎丸 徹Goromaru Toru
20周年アニバーサリー STORY
05
INTERVIEW
学研ココファンの事業拡大

業績回復を託され、
社長命令で古巣へ。
戻る場所が学研ココファンではなかったら辞めていたかもしれない。

PROFILEプロフィール
株式会社 Gakken
代表取締役社長
五郎丸 徹Goromaru Toru
INTERVIEW
インタビュー

訪問販売の現場で、
高齢者事業に活路を見出す。

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学生時代はマスコミ志望で、編集職を希望して1991年に学習研究社(現 学研ホールディングス)に入社しました。ただいつの間にか出版の仕事からどんどん離れていって、結果的に介護事業に行きついた感じです。

学研でのスタートは、『学習』と『科学』を販売する営業の仕事でした。かつて学研の「屋台骨」といわれた学習雑誌です。当時は各都道府県に支社があって、私は大分支社に5年半、仙台支社に3年半いました。東京本社に戻ってからは、家庭直販事業部という部署で、いま学研ココファンの役員になっている2人とチームになり、営業スタッフにセールス力をつけるための訪問販売インストラクターの仕事をしていました。

訪問販売の現場でわかったのは、とにかく子どもの数が激減していること。そして、女性の社会進出の影響で親が家にいないこと。営業スタッフが朝から晩まで軒並みインターホンを押して家々を回っても、一日10面談できればいいほうで、ひどいときは3面談。売るのが家や車ならともかく、学習雑誌という商材にこの形態はもはや合っていない、この事業をこのまま続けるのは厳しいなと、だんだん思うようになっていったのです。

同時に肌で感じていたのは、高齢者が増えていること。インターホンを押して出てくるのが、みんなご高齢の方で。いま学研がやるべきは高齢者事業じゃないか――。それが、セールスの最前線にいた私たちが出した答えでした。

学研ココファンの会社設立は2004年ですが、高齢者事業はその2年ほど前から準備を進めていました。最初に考えたのは、全国の高齢者施設を対象にした通販の仕事です。そのときの通販カタログの名前を「ココファン」にしたのです。これは、私が出したネーミング案でした。「介護」を外国の言葉に言い換えるというような案もあったのですが、私は考えた末にパッと頭にひらめいた言葉にしました。結局その言葉が採用されましたが、造語なのでこの言葉自体に意味がある訳ではないのです。でも、頭にCoとつく言葉は、いい言葉が多いんです。conversation(会話)やcomfortable(快適な)、companion(仲間)とか。こういった「心ゆたかな暮らし」をイメージできるようなメッセージを込めています。

ただ、まもなく通販事業ではなく、高齢者住宅と訪問介護をやることになりました。教育系の出版社として名の知られた学研が介護事業に乗り出すことについて、社内の風当たりはそれなりに厳しかったですね。

でも当時一緒にやっていたメンバーの「絶対にこの事業がこれから社会にとって必要になる」という気持ちが揺らぐことはありませんでした。

信念を胸に、
幾多の修羅場を乗り越えて。

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ところが、設立3年にしてココファンは大きな赤字を出していました。学研の経営陣の多くは「もう介護事業は撤退を考えなさい」と。赤字を少しでも減らすために責任者と施設長だったメンバーを残して、「五郎丸はどこかで違うことをやりなさい」と、私は学研ココファンから離れてしまうことになりました。

その後、私は学習研究社の経営企画室を経て、医療関係の出版物を扱うグループ会社へ異動しました。学研ココファンを離れていた6年半は、常に目の前の新しい仕事にがむしゃらに打ち込みました。それでもやはり学研ココファンのことは気になっていました。当時のココファンは事業を伸ばそうと先行投資で出店を加速していましたが、それがなかなかうまく行かない。財務状況はどんどん厳しくなっていき、もはや全社問題となっていました。責任者は相当追い詰められていたと思います。でも、事業を止めるわけにはいかなかった。

そんななか、学研ホールディングスの社長から突然声が掛かりました。「五郎丸、ココファンに戻って何とかしてくれ」と。でも、私は「嫌です!」と即答しました。 学研ココファンに戻るのが嫌だったのではなく、当時、私が夢中で取り組んで立ち上げた新規事業がやっと花開きはじめた時期だったからです。やりかけたことがたくさんあるのに「戻れ」とは何ごとだ、と思ったのです。何回か話し合いましたが、「会社で決まったことだから」と言われて「絶対に嫌です!」と私も突っぱねました。実際、1週間ほど会社に顔を出しませんでした。サボって映画を観ながら、「学研を辞めたらフランチャイズの飲食店のオーナーでもやろうかな」なんて本気で考えていました。

「今さら自分が戻ってもやることなんかない。信頼する学研ココファンの創業メンバーがやっていてダメならば、自分がやってもダメだろう」。心からそう思っていました。戻るか戻らないか本当に思い悩みましたが、最終的には辞めずに学研に残ることを選びました。それは戻るところが学研ココファンだったからです。それだけ思い入れも強かったのだと思います。ココファンではなかったら、恐らくそのときに辞めていたと思います。

結局、学研ココファンに戻って常務を1年、社長を7年やりました。戻った当初は、文字通り「どん底」で全く先が見えない。業績回復させる自信なんて、正直言ってありませんでした。

とにかく、大変な案件や課題が次から次へと降ってくる。力がないのに手広く出店しすぎたのだと思います。当時あった約50拠点のうち、30拠点以上は入居率が6割に満たない。一拠点につき何百万もの赤字を毎月出し続けるわけです。断腸の思いで他社に手放した事業所もいくつかありました。もう、倒れそうなぐらい本当に辛かったですね。

当時の課題に、現場に責任者クラスの職員が足りていないというものがありました。そこで、人事を刷新してブロック長制度を導入してエリアごとにマネジメントを託しました。ほかにも考えつく限りのことは、すべてなんでもやりました。冬の夜、駅前で入居者募集のチラシ撒きもしましたね。一人300枚。学研ココファンは「率先垂範」ですから社長も一緒にやる。通常の営業も社員と一緒に回りました。

山積した問題を一つずつ地道に解決していくなかで、だんだん入居率が良くなっていきました。宣伝方法や営業の手法も確立してきて、開設してすぐに満室になる物件も出てきました。ブロック長制度のもとで人も育ってきて、「もしかしてこれはいけるんじゃないか」と、少しずつ感じることが多くなりました。

いわゆる「勝ち筋」というものに乗ってきた、と確信したのは学研ココファンの社長に就任して3年目くらいです。行政機関の官僚から、「友人が高齢者住宅を探していて、ココファンを紹介したい」と、私のところに直接連絡がくるようになりました。「学研ココファンがここまで信用されるようになった」と実感しましたね。

そして、学研ココファンが安定して収益が出るようになったのを見届けて、私は再び学研ココファンを離れました。
あれからもう2年が経ったのだと思うと、とても感慨深いです。

ココファン精神とは、
諦めずにやり抜く力。

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現場では事件、事故、災害も含め、毎日のように想定外のことが起きます。想定外の最たるものは、私の任期中で言えばやはりコロナ禍ですね。世界中が未曽有の危機にみまわれ、住宅の運営をどうするのかというときに、よそと全く逆のことをしていました。つまり、入居を促進し、営業していい、と指示しました。なぜなら、これまで以上に世の中の多くの人が困っていたからです。拠点でも濃厚接触者や感染者が出て、厨房が閉鎖されたり、面会ができなくなったりで対応に追われていました。そんななかでもスタッフはご入居者の暮らしを守るのと同時に多くの人の受け入れにも奔走してくれました。

自然災害にも見舞われました。2019年の台風19号では、豪雨による浸水で、あちこちの事業所から「今、水が流れ込んできました!」「1階は水没です!」「多摩川があふれそうです!」って私の携帯に連絡が入って、“実況中継”のような状態でした。「とにかく上階に逃げて」「近隣の施設へご入居者に移ってもらって」と一日中、指示を飛ばしていました。 ココファンのブロック長を始めとした現場のスタッフというのは、命に関わるときは特に、強くて逞しいんです。災害時の行動もこれ以上ないほど的確で。 学研ココファンは本当にスタッフに恵まれているなと思います。今残っている人はもちろん、去っていった人についても、そう思います。その土台を作ってくれた人たちには、感謝しかありません。そして、学研グループにもずいぶん助けられました。

私が今の学研ココファンに期待すること、それはヘルスケアの分野、特に高齢者介護、高齢者住宅の中で名実ともにトップカンパニーになることです。事業所長などの幹部職員によく言っていたのは、「人、品質、業績の3つを常に考えなさい」ということ。良い街づくりのためには何が足りないか、という観点も重要です。街づくりの取り組みを通して、より多くの世代の心ゆたかな暮らしを支えていって欲しいと思います。

創業当時から変わらない「ココファンスピリット」とは、諦めずにやり抜く力です。学研ココファンに限らず、学研グループの他の事業部門もこのスピリットで取り組んでいけば、学研グループはきっと今以上に大きく成長できるはず。そう私は信じています。

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