小早川 仁Hitoshi Kobayakawa
木村 路則Michinori Kimura
20周年アニバーサリー STORY
ストーリー

STORY

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INTERVIEW

ここから始まった!
新事業への挑戦

代表取締役 兼CEO
PROFILEプロフィール
株式会社学研ココファン
代表取締役 兼 CEO
小早川 仁Hitoshi Kobayakawa
社内のほとんどに反対された事業が、
新たな企業ミッションとして成長
学研こそがやるべき事業だと
信じ続けた20年
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INTERVIEW
インタビュー

社内で反対された事業が、新たな企業ミッションとして成長
学研こそがやるべき事業だと信じ続けた20年

社長との衝突がきっかけとなった、学研としての大きな転換点

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学研ココファンは私を含めた3人で、学研内の社内ベンチャーとして立ち上げた会社です。それから20年間、ずっと目の前の難題をクリアすることばかり考えていましたから、10周年の時も、会社が初めて黒字化した時も、売上が100億を達成しても、拠点数が日本一になったときも、会社として何のイベントもせず次の課題や目標に向かって走り続けてきました。でも、今回20周年を迎えるにあたって、社員側から「学研ココファンの20周年を、しっかり節目として考えたいです」と動きだしてくれました。とても嬉しく感じています。

この会社のスタートは、決して順風満帆とは言えませんでした。誕生のきっかけは23年前。34歳の私は本社で子ども向けの月刊誌『科学』と『学習』の営業マネジメントをしていました。当時は競合他社が新たな営業戦略によってシェアを拡大してきており、学研は追い込まれつつありました。まさに「最後の戦い」のような状況でした。学研はいわゆる“学研のおばちゃん”が各家庭のピンポンを押して販売・配達をする営業スタイルで、「応援お願いします!」と要請があれば、北海道から沖縄まで出かけて一緒にピンポンを押す。だから、全員指先に硬い「ピンポンダコ」ができていたような状況でした。

そんなある日、当時の社長や同僚と夕食へ行った時に、社長がポロッと「実は訪問販売から撤退しようと思っている」と漏らしたのです。その言葉に思わず、「私たちが全国へ飛んで指にタコができるほど頑張っているのに、簡単にあきらめてしまうのですか!?」と食って掛かってしまいました。とても悔しい気持ちになったのを今でもよく覚えています。そしてその翌日に社長と直接、改めて話をしました。そのときに与えられたミッションが「10年後20年後に学研の主力事業になることを考えること」。それが学研ココファン誕生と、学研が医療福祉分野の事業をスタートしたきっかけです。

とはいえ、当時は共働き家庭が増えて、戸別訪問しても出てくるのはご高齢者ばかりで、メインターゲットである子どもや親の意見がほとんど聞けません。そこで「それならご高齢者から徹底的に意見を聞いてみよう」と切り替え、数えきれないほどの面談をしました。すると、本当にたくさんの声が出てくるのです。「もし介護が必要になったら」「食事が作れなくなったら」「近くの老人ホームは高くて入れない」「息子夫婦はいないし、高齢者二人でどうしたらいいのか」「できれば住み慣れた土地を離れたくない」などなど。つまり、多くの方が慣れ親しんだ地域で、介護が必要になっても安心して暮らし続けられることを望んでいらっしゃいました。私たちは、こうした意見をもとに「地域の中で安心して暮らせる仕組みと住まいを作る」という主旨の企画書をつくり、社内で新規事業の提案をおこないました。
ところがこの新規事業、多くの経営陣が難色を示しました。

私たちの思いと 創業者の思いが重なった

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今考えるともっともなことだと思います。ご高齢者が住む建物を作る土地と建物、大勢のスタッフの人件費など、ざっくり十億単位の資金が必要です。当時の経営状態では無理だという点は理解できるのですが、あまりにもたくさんの、悲鳴にも似たご高齢者の声を聞いた以上は、社会貢献を掲げる学研こそがこの事業を手掛けるべきだ、という思いに突き動かされていました。
そんな時に出会ったのが、学研の創業者・古岡秀人オーナーのお嬢様です。彼女は“古岡奨学会”(母子家庭へ給付型奨学金を与える財団)の理事をしており、私の話に「うんうん」と真剣に耳を傾けてくださいました。そして一通り聞き終わると「それ、絶対やりなさい」と。実は、㈱学研ココファン(創業時は㈱ココファン)の資本金の一部は創業者のお嬢様が出資してくれました。あとからお話を伺うと、古岡オーナーは生前「学研は教育を通じて社会に貢献してきた。これからは高齢化が始まるから、そこでも何か社会に貢献しなきゃいけない。」と言い残していたそうです。彼女はそれにしたがっただけかもしれませんが、私たちにとっては足を向けて眠れないほどの恩人です。
さらに彼女は「ほかに何か必要なものはありますか」と続けたので、ご高齢者の住まいを建設するために必要な土地として、創業者が住んでいた邸宅の跡地を譲ってください!と言ってみました。彼女は「わかりました」と迷わず承諾してくれました。

そんな彼女の発言を携えて、再度企画を提出。OKが出たのは2002年、35歳の時です。そこから準備を始めて、2004年に学研ココファンは社内ベンチャーとして産声を上げました。

それから3~4年は生死をさまようような経営状態でした。どうしても採算が合わない。他の施設のように多額の入居金をもらうようにすればすぐに黒字化しますが、ご高齢者の実情を考えると絶対にそれはできない。だから途中で「傷が浅いうちに撤退しろ」と経営会議で言われ、撤退シミュレーションを作らされ、半べそで説明したのを覚えています。でも高齢者向け住宅だけは絶対に続けさせて欲しくて頭を下げ、何とか撤退は免れたのですが、当時展開していた訪問介護ステーションは撤退することになりました。それを訪問介護のスタッフに話すと、熱いコーヒーをかけられて。でも、感謝することもありました。熊本のスタッフたちが撤退への理解を示してくれただけでなく、「次に地方展開できるようになったら、第1号は必ず熊本に作るから」という私の言葉を信じて、全員で東京へ来て、こちらの拠点で働いてくれたのです。それが本当に嬉しくて、2年後に地方展開を再開した際は、真っ先に熊本へココファンの高齢者向け住宅を作りました。

ココファンが認められた日

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現在、学研ココファンの軸になっているサービス付き高齢者向け住宅、いわゆる「サ高住」。そのモデルとなった拠点が横浜の日吉にオープンしたのは2010年3月1日。子どもの頃から大好きで、若い私が心血を注いで営業していた『科学』と『学習』が休刊となり最後の配達を終えた翌日です。この時に高齢者支援事業は、学研の新たな企業ミッションとしてバトンを受け継ぎました。

この住まい(ココファン日吉)は高齢者向け住宅の新しい形として、プロジェクトの進行中に国からも注目されていました。オープンの日には大臣も来ました。その後、ココファン日吉で構築した、「高級有料老人ホームではなく、平均的な年金受給者が必要なサービスを受けながら、地域の中で安心して住み続けられる」モデルとその趣旨に、当時の政府が賛同、翌2011年に「高齢者住まい法」が改正され、サ高住という類型が誕生しました。国の施策として、高齢者が安心して住み続けられる住まいを世の中にふやしていく制度が整備されたのです。私たちの事業が認められ、国からモデルケースとして太鼓判を押されたわけです。

それまでは、学研ココファンが運営している高齢者向け住宅は法的には整備されていない状態でしたから、同じ介護業界でも訝しく思う人たちはたくさんいました。自治体の会合に出たスタッフのなかには「法の網をくぐって儲けの片棒を担いでいる」などと言われて、泣いて帰ってきた人もいたほどです。でも、会社を信じ、こらえてくれた。きっと日吉のオープンは、スタッフたちにとっても感無量だったかと思います。

スタッフには本当に苦労をかけっぱなしです。だからこそ「みんなの頑張りに報いたい」「感謝を示したい」と、ずっと心の中では思っていました。それでもきっかけをつかめないままズルズルと先送りしているうちに、ある人は会社を去って、ある人は亡くなって……いくら目の前に問題が山積みだったとしても、お客様の願いを叶えようと努力していたのだとしても、感謝を伝えられなかった事実は残ります。そういう意味でも、今回の20周年は節目としていい機会かもしれません。

学研ココファンは、今のところ思い描いた以上の会社になっています。自画自賛ですが、とてつもなくいい会社に成長しました。これからもお客様はもちろん、スタッフにもどんどん恩恵を還元できるような、そんな会社として成長し続けたいと思います。

元取締役社長
PROFILEプロフィール
株式会社学研ココファン
元代表取締役社長
木村 路則Michinori Kimura
2代目社長として赤字と戦った数年間は
嬉しさ、おもしろさも散りばめられていた
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INTERVIEW
インタビュー

2代目社長として赤字と戦った数年間は
嬉しさ、おもしろさも散りばめられていた

法務部長としてココファン設立を支援
そして突然の取締役抜擢

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学研で「高齢者介護事業に進出する」という話が出始めた時、私は学習研究社(現・学研ホールディングス)の法務部長でした。会社設立の法律的な支援として必要書類の作成や手続きなどを進めながら、新規事業参入のリスク評価を行う。ココファンへの関わりはその程度だったのです。当時の学研は主力の『学習』と『科学』が非常に苦戦しており、いろいろな新規事業に挑戦していました。介護事業の進出に対するリスク評価では「サービス内容が既存の事業と全く異なるし、ノウハウも使えない。」という唐突感が大きく、厳しいのではないかというものでした。また、リスク評価ということからは「それまでにない社員が直接顧客(利用者)と接する。しかも高齢者に対するということでリスクが顕在化する可能性がある」といったネガティブな評価でした。創業者の邸宅跡に第1号施設を建設するというので地鎮祭に招待されたのですが、「ここに作るんだ~」「どんな施設になるのかな~」という程度の認識で出席していたくらいです。

ところが、2005年3月頃遠藤社長(当時)に呼ばれて「あなたを学研の取締役にしようと思う。内定したよ」と言われたんですね。その後の打ち合わせで「取締役になるからには事業運営をやってもらう。新規事業としてスタートしていた高齢者介護事業とココファンの社長を兼務していた取締役が退任するから引き継いで」と。それでココファンに携わることになったのです。でも、私は高齢者介護事業のことや行っている事業の詳細は全く分からない。誰かに相談やリサーチしたくても、内定段階で口外できない。では、どうすればいいのか……皆目わからず、いろいろできる範囲で調べ、考えました。

高齢者介護事業の必要性が社会で注目されていろいろな会社が参入している状況でしたが、学研がそこに参入することに対しては、さきほで述べましたように、社内では厳しい見方が大半でした。しかし、私は、考えた結果、後に述べる学研ブランドと高齢者介護事業との関係で十分やっていけるのではないかと思いました。また大きかったのは、メンバーに恵まれていたことです。高齢者介護事業は社内の事業部とココファンで一体となって推進していましたが、両方に馬力のある有能な若手社員が多くおり、敬愛すべき同期入社の社員が管理職として頑張っていました。この二つのことから5月に社長就任の際の社員に対する挨拶で、「必ずこの事業は成功します。どんな形で成功させるか一緒に考えましょう」と言ったのを覚えています。

とはいえ、その当時の事業部とココファンの実態は非常に厳しいものでした。事業部は大きな赤字でしたし、ココファンは設立されて間もなく、会社としてのルールや人事制度、評価制度などの基盤を作らなければいけないという状況でした。高齢者住宅事業は、第1号の南千束が建設中で事業準備段階で、事業としては訪問介護(住宅併設ではなく単独の訪問介護事業所)、介護関連用品販売、カタログ販売、コンサルティングなども手掛けていましたが、柱になるような事業が見当たらない状態でした。

成功への予感した
それは、「学研ブランドはイコール教育ではない」

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具体的には、介護関連用品販売事業では、そもそも販路が確定していないのです。「どうやって売っているの?」ということです。カタログ販売も大変で、施設にあるあらゆるもの……金魚すくいの金魚でさえ扱っていたのですが、大手のライバル会社がありました。互いに商品そのものはあまり変わらない中での争いですので価格を下げて対抗すると、向こうも下げてくるチキンレースです。当然収益性は大きく落ちます。どこまで耐えられるかということになります。訪問介護もマンパワーが必要な中、少数の社員が大変な頑張りをしてやっと1人利用者の獲得につながるかというように非常に効率が悪い。

その結果、どんどん赤字は膨らみ、学研の月次会議では「一度総括した方がいい」「今撤退したらどうなるか考えてはどうか」と厳しい言葉ばかり。それでもいいろいろ手を尽くしても改善しない状況を見て、赤字の早期解消のため、色々と広げていた事業をやめて安定的な収益が見込める高齢者向け住宅に絞るしかないと決めました。その結果すでにオープンしていた東京都大田区のココファン南千束、そして計画中であった千葉県野田市のココファン尾崎台、そして神奈川県のココファン藤沢の3か所に限って実施とし、その経過を見て今後を決めるという判断が下され、あとのカタログ販売といった事業は全部閉鎖、撤退することにしました。

しかし、3か所の建設は決まったのですがお金がたりない。そのままでは資金ショートになる。確実な返済計画も立てられないので融資も受けられないという状況です。困り果てて、遠藤社長に状況の説明と事業の将来性をお話しし、最後の資金提供として増資をお願いすると、それが通ったのです。遠藤社長はこの新規事業には本当に応援してくれました。まさに溺れる寸前に息継ぎができた感じでした。

それでもしばらくは赤字の連続で苦しい時期も続きましたが、ココファン南千束から待望の単月黒字の報告があり、ようやく光明が見えました。会社員生活で一番うれしかったことといえるくらい嬉しかった。そこからはゆっくりと上向いていきました。学研の月次会議でも「何室あって何室埋まった。採算ラインはここでいつ頃到達の予定」と報告できるようになり、先が見えることから厳選してという条件が付きましたが、4か所目以降についても推進することになり計画を実行できるようになりました。

ココファンの社長に就任するにあたり、成功の可能性があると考えた学研ブランドと高齢者介護事業について話します。学研ブランドを支えたのは「学習」と「科学」であることは間違いありません。普通、商品はその内容を見て購入します。出版物も基本的には同じです。しかし「学習」「科学」は4月号を購入すれば、その後毎号内容を見て購入を決めるのではなく、何らかの事情でやめない限り3月号まで継続して購入してもらえます。その背景に何があるかというと、創業以来いいものを合理的な価額で提供してきたことから、いいものを必ず提供してくれるという安心感や信頼感があり、それが学研ブランドそのものだといえます。そうならば学研ブランドを「教育」ブランドだとするのはある一面を見ているだけのことだということになります。1970年代後半から80年代にかけて、『学習』と『科学』が最高670万部という爆発的に売れた時代の多くの読者とその保護者のことを考えてみると、ココファンが事業を始めた2005年前後は、保護者世代が自らの将来の介護と向き合い、読者が親の介護を考える時代になっていました。そして、将来は読者世代が自らの介護に直面する時代になる。そうすると、学研ブランドに対する安心感や信頼感が強力な推進力になり事業を推進して成功に繋げることができるというのが私なりの結論でした。この間に確固たる地位を占めれば、長期にわたって安定した事業になるでしょう。だから高齢者介護事業を始めたころから「学研が高齢者事業をやります」と言うと「学研って。あの学研ですよね?」と返ってくる。建物のオーナーになっていただきたいとお願いすると、「学研さんなら」と快諾をいただく。「イケる!」と思いました。

ドタバタした日々が懐かしい
これからも「よりよく」を目指して欲しい

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私の社長時代はだいたい4年くらいですが、このインタビューをココファン藤沢で受けていることもあり2006年、ココファン藤沢の開所式を思い出しました。

ココファン藤沢は建物の完成前から近くのマンションに仮事務所を設けて準備をしていました。まだ赤字続きの時期でしたから、建物が完成して事務所を引っ越すときも自分たちで荷物を運んだのです。開所式当日も、私ともう1人でコピー機を運びました。これが重くて重くて。2人がかりでリフト付きの福祉車両を使い、ようやく運び込めました。あとから聞くと、会場にはマスコミやお祝に見えた方もいらっしゃって、「社長さんにお話を」と言われたスタッフが正直に「今コピー機を運んでいます」と答えたそうです。「えっ、何を言っているの?」とびっくりしていたそうです。

私が介護ヘルパーの資格を取ったときも思いだします。そのころはココファンでヘルパーの資格取得事業もしており、私も資格を取るため一般の方と一緒に受講していました。参加者もまさかココファンの社長が研修を受けているとは思ってなかったのでしょうし、だいぶ親しくなってしまったのでココファンの社長とは言いにくかったので言っていませんでした。講座終了にあたり、司会者が「では最後に学研ココファンの社長からご挨拶をいたします」とアナウンスしましたので、しょうがなく、私が前に出たときの会場のざわめきといったらありませんでした。そんなことが懐かしく思い出されます。

私が社長職を退任したのは、2009年です。そのときもスタッフに話したのですが、社員一人一人がココファンを、会社を大きくしようと思わなくていいと思っています。確かにココファンは当時に比べ大きな会社になりましたが、会社が大きくなるのはあくまでも結果だと思います。しかし、「いい施設にしよう」「いい会社にしよう」ということであれば社員全員にできることがあるはずです。何をするかは会社から指示など必要ありません、それぞれがこういう会社はいい会社だと思う会社になろうと努力すればいいのです。それが安心感や信頼感を背景にした学研ブランドの価値の継続につながると考えます。そうすれば今後10年20年30年とココファンはさらに成長していけると信じています。

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